【概要】
東京工業大学大学院理工学研究科の松澤昭教授と岡田健一准教授らの研究グループは,11Gb/s(毎秒110億ビット)伝送が可能な60GHz(600億ヘルツ)ミリ波無線機を開発した。これは無線信号の位相と振幅の両方を使って一度に4ビット分の情報を送る16QAM(用語1)という変調方式に対応した世界初のダイレクトコンバージョン型無線機(用語2)である。
16QAM(用語1)変調に対応したダイレクトコンバージョン型無線機は、通信に必要な搬送波信号を生成する無線機の心臓部である直交局部発振器(用語3)の位相雑音特性(用語4)が実現の妨げとなっていた。同グループは発振器に別の周波数を注入する注入同期型発振器(用語5)を用いることにより、位相雑音を従来の100分の1に抑えることに成功、この問題を解決した。
開発した無線機は最小配線半ピッチ65nm(ナノメートル)のシリコンCMOSプロセスで試作した。IEEE802.15.3c規格(用語6)など60GHz帯ミリ波無線通信の各種国際標準規格に準拠する無線通信が可能である。消費電力は送信機186mW(ミリワット)、受信機106mW、発振器66mWと低く、携帯電話などに搭載可能であり、ミリ波無線通信の実用化につながる。
この成果は20日からサンフランシスコで開かれる「ISSCC(国際固体回路国際会議)」で22日に発表する。
●研究の背景と本成果の意義・内容
東工大の松澤教授と岡田准教授らのグループが開発したミリ波帯無線機は、60GHz帯を用いる無線通信規格IEEE802.15.3cに準拠するほか、規格で定義されるすべての変調方式に対応する世界で初めての無線機である。小面積・低消費電力化が可能なダイレクトコンバージョン方式(用語2)により実現した。携帯電話等に搭載可能である。
[1] 特徴を簡単にまとめる。IEEE802.15.3c規格(用語6)に準拠し、16QAM,8PSK,QPSK,BPSK(用語1)の規格上すべての変調方式に世界で初めて対応した。
[2] ミリ波帯無線機において、小面積・低消費電力化が可能なダイレクトコンバージョン方式で16QAM変調による無線通信を世界で初めて実現した。
[3] 消費電力は送信機186mW、受信機106mW、発振器66mWと低く、携帯電話等に搭載可能である。
[4] 最大で8Gb/s(QPSK変調)、11Gb/s(16QAM変調)まで無線伝送が可能である。
[5] アンテナはパッケージに内蔵されている。伝送距離はQPSK変調において最大2.7mである。
現在、携帯電話や無線LANなどの公衆向け無線通信機器には、6GHz以下の周波数が利用されている。6GHz以下の周波数帯は既に様々な無線通信に利用されており、それぞれの無線通信規格で利用できる周波数帯域はごく限られたものである。実用化されている中で一番高速な無線LAN規格であるIEEE802.11nでも40MHzの周波数帯域しか利用できず、伝送速度も高々300Mbps程度である。無線伝送速度は周波数帯域で制限されるため、このような逼迫した6GHz以下の周波数を利用する限り、今以上の大幅な速度向上は期待できない。
そのような中、近年注目を集めているのは60GHz帯を用いるミリ波無線通信である。60GHzでは最大で9GHz近い帯域の利用が可能であり、大幅な通信速度の向上が期待できる(参考図)。60GHz帯には2.16GHz帯域が4チャネル確保されており、通常用いられるQPSK変調(用語4)では1チャネルあたり3.5Gb/s、より高度な16QAM変調(用語5)では1チャネルあたり7Gb/sの無線伝送が可能である。4チャネル同時に利用すれば28Gb/sの無線伝送が可能である。このようにミリ波帯で16QAM変調が可能になれば、大幅な無線通信速度の向上が実現できる。
これまでに報告されているミリ波帯無線機の多くは、ヘテロダイン型のものであり、ダイレクトコンバージョン型での実現が望まれている。ダイレクトコンバージョン型では一度に周波数変換を行うため、回路が簡単にでき、小面積化・低消費電力化が可能である。一方で、個々の回路への性能要求が厳しくなるため、これまでにミリ波帯で16QAM変調が可能なダイレクトコンバージョン無線機は報告されていない。同じくミリ波を用いるWirelessHD規格向けのチップはヘテロダイン型であり、2W程度の消費電力が必要であった。
つまり、ダイレクトコンバージョン型無線機により16QAM変調を実現することが最重要課題であった。これまでは発振器の位相雑音が問題であったが、本開発品では注入同期型の発振器を用いることにより、従来よりも位相雑音を20dB改善することに成功した。これにより、世界で初めてダイレクトコンバージョン型無線機により16QAM変調による無線通信を実現した。小型・低消費電力で7Gb/sを超える無線通信が可能であり、携帯電話等への搭載が期待できる。
参考図:60GHz帯における周波数割り当て
●発表予定
この成果は,2月20日~24日にサンフランシスコで開催される「2011 IEEE International Solid-State Circuits Conference (ISSCC 2011):2011年IEEE 国際固体回路国際会議」のセッション「Session 9 - Wireless&mm-Wave Connectivity」で発表する。講演タイトルは「A 60GHz 16QAM/8PSK/QPSK/BPSK Direct-Conversion Transceiver for IEEE 802.15.3c (IEEE802.15.3c規格に向けた16QAM/8PSK/QPSK/BPSK変復調が可能な60GHz帯ダイレクトコンバージョン無線機)」である。2月22日の8時30分から発表を行う。
なお、本研究は総務省委託研究「電波資源拡大のための研究開発」の一環として実施された。
● 技術内容
今回開発した回路は,16QAM(用語1)変復調が可能な世界初のダイレクトコンバージョン型無線機(用語2)である。16QAM変調は高速な無線伝送が可能である一方、高い回路性能を要求するため、従来ミリ波帯では実現が困難とされてきた。ミリ波無線通信で16QAM変調が困難な理由として、ミリ波帯ではコイルやコンデンサの損失が大きく、必要な位相雑音特性が得られないということが挙げられる。また、小型・低消費電力なダイレクトコンバージョン型の無線機実現のためには、4相正弦波出力が必要であり、これまで報告のあったものでは、位相雑音性能が低く、QPSK変調ですら困難な性能であった。
本開発回路方式では、60GHz帯の局部発振器(用語2)と20GHz帯の発振器を組み合わせることにより、大幅な位相雑音特性の改善を可能とした。図1に無線機全体の回路ブロック図を示す。送受信ともダイレクトコンバージョン型となっており、それぞれに60GHz帯における注入同期型直交発振器(ILO: Injection-Locked Oscillator)を持つ。注入同期直交発振器は、20GHz帯における発振器(PLL: Phase-Locked Loops)からの同期注入を受ける。20GHz帯PLLで生成した低位相雑音な正弦波信号を、60GHz帯注入同期型直交発振器(ILO)に入力することにより、60GHz帯での位相雑音特性を大幅に改善し、なおかつ、4相正弦波が出力可能である。従来報告のあった60GHz帯直交発振器より位相雑音を20dB改善した(100分の1の雑音)。これにより、ダイレクトコンバージョン型の無線機により、16QAM変調が可能となった。
図2にチップ写真を示す。送信機部分の面積が3.5mm2、受信機部分の面積が3.8mm2、であり、20GHz帯PLLのチップ面積は1.2mm2であった。 65ナノメートル(nm) のシリコンCMOSプロセスを利用して試作した。
表1に、無線伝送試験結果をまとめる。IEEE802.15.3c規格(用語6)に定められた2.16GHz帯域を用いて、規格準拠に必要なすべての変調方式において最高の7.04Gb/s(16QAM変調)、5.28Gb/s(8PSK変調)、3.52Gb/s(QPSK変調)、1.76Gb/s(BPSK変調)の伝送速度を達成した。非常に良好なEVM特性を実現した。ビットエラーレート(用語8)において10-3以下の範囲を通信可能として評価を行った。3.52Gb/s時のQPSK変調における無線伝送距離は、最大で2.7mであった。規格で決まる2.16GHz帯域以上を用いれば、最大で8Gb/s(QPSK変調)、11Gb/s(16QAM変調)まで伝送が可能であった。また、他のミリ波帯無線規格においてもチャネル周波数や帯域は共通であるため、IEEE802.15.3c規格以外にも、IEEE802.11ad規格、WiGig規格等にも準拠する無線通信が可能である。
表2にチップの性能諸元を示す。消費電力は送信機186mW、受信機106mW、発振器66mWと低い。図3にアンテナ内蔵パッケージとテスト用ボードを示す。アンテナゲインは2dBiであった。
表3および図4に、これまでに学会等で報告のあったミリ波帯無線機に対する性能比較を示す。これまでに、ダイレクトコンバージョン型として報告があったのはカナダ・トロント大学、米国・カリフォルニア大バークレイ校からの2件のみであった。また、発振器を含むものはバークレイからのもののみであるが、対応するのはQPSK変調のみであり、16QAM変調には対応できなかった。また、アンテナは外付けのホーンアンテナを用いている。今回開発した無線機はアンテナをパッケージ内に内蔵し16QAMでの変調も可能である。消費電力も低く、通信速度も大幅に向上している。携帯電話等の小型無線端末に搭載可能である。
【用語説明】
用語1:BPSK変調、QPSK変調、8PSK変調、16QAM変調
変調方式の種類。BPSK、QPSK、8PSKは位相偏移変調の一種。一回の変調でそれぞれ2値、4値、8値を用い、それぞれ1bit、2bit、3bitの情報伝送が可能である。16QAMは振幅情報も用いる直交位相振幅変調の一種であり、位相と振幅の両方に変調をかけることにより、一回の変調で4bitの情報伝送が可能である。
BPSK、QPSK、8PSK、16QAMの順で必要な信号純度が高くなり、回路の設計が難しくなる。
用語2:ダイレクトコンバージョン型無線機
無線機の構成方法の一種。ヘテロダイン型とダイレクトコンバージョン型がよく用いられる。ヘテロダイン型では、キャリア周波数(例えば60GHz)から一度中間周波数(例えば20GHz)に落としてから、ベースバンド周波数に変換する。40GHz局部発振器と20GHzの直交局部発振器が必要となる。部品点数や消費電力は増えるが、個別の回路に求められる性能が緩和されるため構成しやすい。一方で、ダイレクトコンバージョン型では、60GHzの直交局部発振器を用いて、一気にベースバンド周波数に変換する。回路部品点数が減り、低消費電力かつ小面積な回路にすることができる。一方で、60GHzの直交局部発振器の実現は困難であり、十分な無線性能を得ることが難しい。これまでの無線機の研究開発の歴史を振り返ると、新しい無線通信方式が導入されると、まずは回路の構成が簡単なヘテロダイン型無線機として実用化され、その後、高性能なダイレクトコンバージョン型無線機として実用化されることが多い。
用語3:局部発振器
局部発振器は,無線通信に必要な搬送波信号を生成するための回路である。通常、基準となる水晶発振器と、位相同期ループ(PLL: Phase-Locked Loops)により構成される。無線機の性能を左右する最重要構成要素であり、通信品質の改善のため、低位相雑音(用語4)であることが必要とされる。直交局部発振器は、4相正弦波(用語7)の出力が可能な局部発振器である。
用語4:位相雑音
発振器の重要な特性の一つ。必要な周波数の信号に対し,どれだけ不要な周波数のスペクトルを持つかを表す。
用語5:注入同期型発振器
発振器に、別の周波数を注入することにより、異なる周波数を作り出す技術である。例えば、61GHzの注入同期型発振器に20GHzの信号を注入すると注入同期型発振器の発振周波数は20GHzのちょうど3倍の60GHzに固定される。通常、整数倍や整数分の一の周波数に同期する。この時、注入同期型発振器の位相雑音(用語4)特性は、注入した側の位相雑音で決まるため、注入同期型発振器の位相雑音を大幅に改善することができる。例えば、60GHz帯の注入同期発振器の元々の位相雑音特性が悪くても、20GHz発振器の位相雑音特性が良好であれば、同期状態での60GHz注入同期発振器としても良好な位相雑音特性を得ることができる。
用語6:IEEE802.15.3c規格
IEEE802.15.3c規格は、IEEE802委員会下のIEEE802.15ワーキンググループが標準化を行ったWPAN(Wireless Personal Area Network:個人用無線ネットワーク)用の無線通信規格である。60GHz帯のミリ波を用いる無線通信であり、最大7Gb/s(プリアンブル含まず)の無線通信が可能である。その他、IEEE802.11ad規格、WiGig規格、WirelessHD規格などが60GHz帯を用いる無線通信であり、RFフロントエンドしては共通のものが利用可能である。
用語7:4相正弦波
通常用いられる差動型発振器には、出力が2端子あり、それぞれ0度と180度の位相を持つ正弦波が出力される。一方で、無線通信機には4相の正弦波が必要であり、0度、90度、180度、270度に位相のずれた4つの正弦波が必要である。2つの差動型発振器を組み合わせる方法や、原発振を2倍の周波数とし、周波数分周器を用いて4位相を発生させる方法などが用いられる。
用語8:ビットエラーレート
通信における誤り率。通常、高周波回路部分が10-3以下のビットエラーレートを持っていれば、ベースバンドでの誤り訂正機能により無線機全体においては10-6以下の実用的なビットエラーレートが達成可能である。
【本研究の講演日時】
2011年2月22日(火) 8時30分 (現地時間) 口頭発表
【論文タイトル】
A 60GHz 16QAM/8PSK/QPSK/BPSK Direct-Conversion Transceiver for IEEE 802.15.3c
(IEEE802.15.3c規格に向けた16QAM/8PSK/QPSK/BPSK変復調が可能な60GHz帯ダイレクトコンバージョン無線機)
【著者】
Kenichi Okada (岡田健一:准教授),Kota Matsushita (松下 幸太:修士課程学生),Keigo Bunsen (文仙 啓吾:修士課程学生),Rui Murakami (村上 塁:修士課程学生),Ahmed Musa (博士課程学生),Takahiro Sato (佐藤 高洋:修士課程学生),Hiroki Asada (浅田 大樹:修士課程学生),Naoki Takayama (高山 直輝:修士課程卒業生),Ning Li (李 寧:博士研究員),Shogo Ito (伊藤 彰吾:修士課程卒業生),Win Chaivipas (博士課程卒業生),Ryo Minami (南 亮:学部学生),and Akira Matsuzawa (松澤昭:教授)
【お問い合わせ先】
東京工業大学大学院理工学研究科電子物理工学専攻 岡田健一
TEL: 03-5734-2258 FAX: 03-5734-3764
Email: okada@ssc.pe.titech.ac.jp
【会議公開情報】
http://isscc.org/
http://www.miracd.com/ISSCC2011/WebAP/PDF/AP_Session9.pdf
Session 9.1
A 60GHz 16QAM/8PSK/QPSK/BPSK Direct-Conversion Transceiver for IEEE 802.15.3c
K. Okada,K. Matsushita,K. Bunsen,R. Murakami,A. Musa,T. Sato,H. Asada,N. Takayama,N. Li,S. Ito,W. Chaivipas,R. Minami,and A. Matsuzawa
Abstract
This paper presents a 60GHz direct-conversion transceiver using 60GHz quadrature oscillators. The 65nm CMOS transceiver realizes the IEEE 802.15.3c full-rate wireless communication for every 16QAM/8PSK/QPSK/BPSK mode. The maximum data rates with an antenna built in the package are 8Gb/s in QPSK mode and 11Gb/s in 16QAM mode within a BER of < 10-3, and the transmitter and the receiver consume 186mW and 106mW, respectively.
図1:開発したダイレクトコンバージョン無線機
※60GHz注入同期型発振器を用いることによりダイレクトコンバージョン無線機を実現
図2:チップ写真
※65nm CMOSプロセスにより製造
表1:変復調特性
※IEEE802.15.3c規格による2.16GHz帯域を用いて、規格準拠に必要なすべての変調方式において最高の7.04Gb/s(16QAM)、5.28Gb/s(8PSK)、3.52Gb/s(QPSK)、1.76Gb/s(BPSK)の伝送速度を実現。QPSKのフルレートにおいて2.7mの伝送が可能。
※規格で決まった2.16GHz以上の帯域を用いれば、最大で8Gb/s(QPSK変調)、11Gb/s(16QAM変調)まで伝送可能。
表2:性能諸元
図3:実験用ボードとアンテナ内蔵パッケージ
※パッケージは下記論文のものを利用
R. Suga,et al.,“Cost-Effective 60-GHz Antenna-Package with End-Fire Radiation for Wireless File-Transfer System,”IEEE Trans. on MTT,vol.58,no.12,pp.3989-3995,Dec. 2010.
表3:従来報告のあったミリ波帯無線機の比較
※16QAM伝送が可能な初のダイレクトコンバージョン無線機を実現
[1] M. Tanomura,et al.,“TX and RX Front-Ends for 60GHz Band in 90nm Standard Bulk CMOS,”IEEE ISSCC,31.1,pp.558-559,Feb. 2008.
[2] J. Lee,et al.,“A Low-Power Low-Cost Fully-Integrated 60-GHz Transceiver System with OOK Modulation and On-Board Antenna Assembly,”IEEE ISSCC,18.6,pp.316-317,Feb. 2009.
[3] A. Tomkins,et al.,“A Zero-IF 60GHz 65nm CMOS Transceiver with Direct BPSK Modulation Demonstrating up to 6Gb/s Data Rates over a 2m Wireless Link,”IEEE JSSC,vol.44,no.8,pp.2085-2099,Aug. 2009
[4] C. Marcu,et al.,“A 90nm CMOS Low-Power 60GHz Transceiver with Integrated Baseband Circuitry,”IEEE ISSCC,18.5,pp.315-315,Feb. 2009.
図4:性能比較
(◆がダイレクトコンバージョン型無線機)
本件に関するお問い合せ先 |
岡田健一
大学院理工学研究科 電子物理工学専攻 准教授 |
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FAX | 03-5734-3764 |
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