背景と意義
表面増強ラマン散乱(SERS)は、金属ナノ構造中の局在表面プラズモン(LSP)を用いてラマン散乱の信号を増強する方法である。信号の増強は最大で1014倍におよぶといわれ、分子一つのラマン散乱も報告されるようになってきた。しかしながら、SERSの利用法は単に信号の検出の有無にとどまっており、偏光依存性や励起光の入射角依存性を含めた定量的に解析を行なった例は限られている。これは、SERS光の強度に関する定式化が十分に行われておらず、得られた信号の解析が困難なことによる。
SERS信号の定量的な解析手法がこれまで提案されてこなかったことには、いくつかの理由がある。SERSは2光子過程であり、励起と放射の2つの過程に分けられるが、いずれの過程においても、金属ナノ構造中のLSPが介在し、励起光の光電界と放射光の光電界の増強を起こす。計算では、励起と放射のそれぞれの過程における電界の解析が必要である。励起に関しては、有限差分時間領域法(FDTD)や離散双極子近似(DDA)などの数値計算法が確立しており、電界分布の半定量的な計算が可能である。しかしながら、放射に関しては、それらを用いてもその厳密な計算を行うことは困難であった。そのため、励起光の電界の分布のみをFDTDで計算して議論をしたり、光学相反定理を用いた近似法が用いられたりしてきた。前者では、励起のみしか議論できず、後者は適用できる構造が限られるという問題がある。もし、SERS信号の定量的な解析手法が確立できれば、直接的に関連する分野である分光学や近接場光学、プラズモニクス分野への寄与はもちろんのこと、SERSの応用が考えられている表面科学やバイオ、医療の分野へも大きな波及効果をもたらすと考えられる。
研究のポイント
本研究では、図1(a)に示すような解析的に電界計算が可能であり、かつ、強いSERSを起こす系として、基板上に固定化した球状の金ナノ粒子を用いた。この系をモデルとして、励起光の電界分布のみでなく放射光の電界分布の定式化を行い、SERS光の信号強度を定量的に計算できる方法を開発した。
計算では、疑似静電近似のもとで高次の多重極子まで考慮して精度を上げてラプラス方程式を解き、それを空間微分することにより局所的な電界を求めた。これは長波長近似とも呼ばれ、ナノ構造が波長に比べて十分小さいときに成立する。これにより、FDTDなどの数値計算法を用いることなく、解析的に任意の位置における任意の方向の電界を位相を含めて知ることができる。そして、遠視野(検出器上)において、金属ナノ構造近傍に1つの双極子(分子)が存在する場合の電界分布を計算し、それを強度に直し、分子が存在する領域を積分することにより放射されるSERS光の計算を行った。強度に直すのは、SERSはインコヒーレントな過程であるため、電界を積分するのではなく、強度を積分する必要があるためである。また、分子の配向に分布がある場合には、すべての分子配向について強度で積分を行う必要があり、ランダム配向していると考えられる分子の計算では、これを実行した。
これらの解析を実現するためには、微分や積分、多重極展開などの複雑な数式処理とそれを基にした膨大な計算量が必要である。つまり、単に数値計算が速いというだけでなく、複雑な数式処理を高速に実現し、その結果を数値計算に持ち込むことができる使い勝手のよいプログラミング言語が必要である。近年のPCの高速化とメモリの大容量化によりこれが実現し、現実的な計算時間でナノ構造における電界分布の解析的な計算が可能となった。
実験においては、偏光や入射角を変えながらSERSを測定できる光学系の作製が必要である。光源には1mW程度の小型のレーザーと冷却CCDを使った分光装置を自作した。これにより、一般的な装置では困難な入射角を変えながらのSERS測定を行うことが可能になった。
以上の解析と実験により、微細な構造を液体に浸漬しても、液体はナノ構造の隙間に入り込めないことがあることがわかった。たとえば、図2(a)に示すような金のナノ粒子の密度が高い場合には、単分子膜を形成する分子の溶液中に基板を浸しても、ナノ粒子は一部だけしか単分子膜に覆われず、被覆角度θcapは65°?75°と計測された。一方、金のナノ粒子の密度が低い場合には、被覆角度θcapは160°?170°と測定され、ほとんどのナノ粒子表面を覆っていることがわかった。これは、基板を溶液に浸漬した際に、図3(a)に示すようにナノ粒子の下の部分まで溶液が侵入しないためと考えられる。
これらの現象は、図3(b)に示すように、蓮の葉が水をよく弾くことに似ている。これは、蓮の葉効果などとよばれ、図3(c)の電子顕微鏡写真に示したように蓮の葉が表面に細かい凸凹を有することによる。本研究は、AP-SERSの解析法を開発しただけでなく、これを用いて、実験的にナノ構造でも蓮の葉効果がおこり、ナノ構造全体に溶液が浸透しないことを明らかにした。
今後の展開
近年、SERSは、微量な分子や病原体等の検出、生体組織のイメージングなど広い分野で用いられており、高性能な金属ナノ構造の開発は急務である。今回得られた知見により、その金属ナノ構造を設計する指針の一つが得られると考えられる。また、今回の定式化はSERSだけでなく、金属ナノ構造やその近傍に吸着した色素分子などからの蛍光の解析にも利用が可能である。色素分子を標識としたタンパク質やDNAの検出法の最適化や有機EL素子の高効率化のための設計に用いることができる。
用語の説明
表面プラズモン
金属表面や金属ナノ粒子などのナノ構造中の自由電子波を指す。一定の条件のもとで、光による励起が可能である。表面近傍に強い光電界が発生するため、ラマン散乱をはじめとする各種の分光増強や光学的なバイオセンサに利用されている。また、光のエネルギーを波長以下のナノメートルオーダーの領域に閉じ込めることができるため、表面プラズモンを利用したナノフォトニクス技術が広く研究されている。
表面増強ラマン散乱
ラマン散乱は振動分光の一種であり、官能基や分子構造に応じて、それら固有の振動数だけシフトした散乱光が生じる現象である。そのため、分子種の同定やその電子状態、結合や吸着状態などの様々な知見を得ることができる。ただし、一般にラマン散乱の信号が弱いため、単一分子や単分子膜などの微量な分子の観測には、表面プラズモン共鳴を利用した増強が必要である。近年では、表面増強ラマン散乱を利用した微量な分子や病原体等の検出、生体組織のイメージング手段として広く用いられるようになってきた。
掲載雑誌
Journal of Physical Chemistry C, DOI: 10.1021/jp211234p
本件に関するお問い合せ先 |
梶川浩太郎
大学院総合理工学研究科 物理電子システム創造専攻 教授 |
---|---|
TEL | |
kajikawa@ep.titech.ac.jp | |
FAX | |
URL | http://www.opt.ip.titech.ac.jp/index_j.htm |
*6年以上前の研究成果は検索してください